ひさしげ農園通信より抜粋


 

2025年

 園地見学と言えば大げさにはなるが、お客様が旅行で愛媛に来たついでにみかんの収穫体験をされることは過去にもあった。
 最近は、取引先の方やシェフ・パティシエの方から園地見学の希望をいただくことが増えてきた。こちらとしては栽培の様子を知ってほしいという気持ちもある反面「こんなところまでわざわざ」とか「特別なことをしているわけではないし」など、どこか申し訳ない気持ちがあった。しかし、来ていただいた方々の表情や言葉から、これはとても大切なことではないかと私たちも少しずつ考えが変わってきている。
 あるシェフはいつも「素材の味を引き出す」「生産者さんの思いを伝える」ことを第一に料理と向き合っていると言っておられた。そして皆さん笑顔いっぱいで柑橘を食べたり香りを楽しまれるのだ。

 商品には必ず作り手がいて、想いがある。その栽培の様子や周りの環境を見ていただき、お話しする機会があることでその商品を調理や販売されるときの心持ちはずいぶん違ったものになるのではないだろうか。
 私自身も生産者であるが消費者でもある。やはりできるだけ生産者の顔が見えるものをいただきたいと思う。そのような商品を食べるときには自然に『いただく』という気持ちになるから不思議なものだ。
 当然誰もが園地見学に来られるわけではない。私たちは日々の作業、生産者としての考えなど、もっと様々な形で発信していきたいと思った夏だった。

 毎日食卓にならぶ食べ物や水がどのようにして届いているのか?地球規模での気候変動が年々激しさを増す時代だからこそ、私たちはもっと自然環境や社会の仕組みに目を向け、自分たちがどのような行動をするかを考える時期に来ているのかもしれない。


2024年

 25年ほど続けた福祉の仕事を3月末で退職し、農業1年生となった。技術もない上、体力もない。というか、こんなに体力なかったかなあ。と情けない気持ちにもなったが、ぼつぼつ……いや、自分なりに日々頑張って農作業に取り組んだ。暑い夏も乗り切った。クタクタ・汗だくになってする姿はさながら部活動のようだと思った。
 そして大変だけど自然の中での作業は楽しい。地下足袋で土を踏む感触が好きだ。防風林の杉を刈る時の木の香り・摘果する時の柑橘の香りにも癒される。作業の手を休め空や遠くの海を眺めるのも気持ちがいい。トンボや蝶の種類が多いことにも驚く。まだまだ発見がありそうだ。
 晴耕雨読、自然の中で自然に生きる! ゆっくりと歩き始めた。

 柑橘農家に嫁ぎ、農家の仕事をわかっているような気にもなっていたけれど毎日するということは違うと思った。
 収穫や選果・発送も大切な仕事ではあるが、ほんの一部であって、大前提として皆さんに喜んでいただける美味しい柑橘がなければ始まらない。そのための日々の園地管理はとても大切。剪定・防除・肥料まき……数えればきりもないほど細かな作業がある。

 こんなに手間をかけて育てた柑橘だから大切にお客様に届けたい。多くのお客様に食べてもらいたい。農業について知ってもらいたいとの思いを強くしている。


2023年

 10月始め、愛媛県と高知県の県境にある四国カルストの姫鶴平(めづるだいら)でキャンプをした。標高1400mのところにあり、気温は16℃。下界とは別世界だ!満天の星空を楽しむ予定だったが、日程の都合で新月に合わせられず、テントの中から月明かりの稜線の美しさを楽しんだ。
 今回の山歩きは、愛媛県大野ヶ原にあるブナの原生林を散策した一時間程度のもの。それでも自然に抱かれるようでなんとも心地よく、体中の細胞が喜んでいるような感じがした。そして、いつまでもこの原生林が守られることを願った。
 一方、高知県側には杉やヒノキの美しい林が多くみられる。四国カルストまで車で上がる途中、山の斜面にかなりの面積で苗を植林しているところがあった。傾斜地に苗を植えることは大変な苦労だと思う。ましてやそれは今の自分の為ではなく、後世の為に行われる。現在伐採されている木も先人が後世への思いを託して植えたものに違いない。こうして順送りに美しい林は守られていくのだろう。
 スケールは違うが、私たちもご先祖様が開墾したミカン畑を後世に残せるようにと日々農作業に励んでいる。そんなことを考えていたら“私たち現代人は後世の為に美しい地球を残せるだろうか?”と究極の疑問が湧いてきた。一次産業に関わる人だけの問題ではない。地球の声に耳を傾け、産業面から環境面から一人一人がそれぞれの立場で何ができるか考え、できることをやり始めなければ。



2022年

 数年ぶりに石鎚山に登った。紅葉にはまだ少し早かったが十分に自然を満喫しリフレッシュすることができた。石鎚山の登山道は木道などで整備されているところが何か所もあり安全に登山することができる。その材料はどなたが、どのように運び作業しているのだろう。大変な労力だと思う。そんなことを思いながら下山していると新しい道標を運んでいる方々に出会った。挨拶とともに感謝の気持ちを伝えた。見えない多くの方に支えられて安全で楽しい登山ができ非日常の喜びを感じることができるのだと思った。
 日常の様々な“ものやこと”についても作り手がいる。そこに想いを馳せればおのずと感謝の気持ちがわき、そのものを大事に使おう・感謝していただこうとの行動につながるのではないだろうか。
 毎年登場する我が家のニホンミツバチたちの行動はその気持ちを強くさせる。その健気な働きで一生にできるハチミツはティースプーン1杯というのだから採蜜の際は一滴も無駄にしたくないと思う。何事にも感謝し、いただくという気持ちを大切に丁寧なくらし・丁寧なモノづくりを心がけたい。


2021年

 今年、2年ぶりにニホンミツバチが巣を作り9月下旬に採蜜を行った。その断面の美しさにはいつも感動し、声が上がる。何万匹の蜂たちの健気な働きのおかげだ。そして、主人のお世話ぶりには脱帽する。いかにして蜂が住みやすい環境を作るか。外敵から守るか。いろいろ調べては対策を講じる。その様子を見ていると私まで蜂に対する愛着がわいてくる。蜜がとれることの奇跡を感じるのだ。
 柑橘栽培にも通じることがあるように思う。農業は自然相手で大変なことも多いけれど、自然の中での作業はいろいろな発見がある。小さな花の可憐さや、実りの期待。そんな日々の感動や発見・思いなど収穫までの背景を知っていただくことで、お手元に届いた柑橘をより美味しく召し上がっていただければと思う。“ひさしげ農業通信”は拙い文章ですが、少しでも楽しんでもらえたら嬉しい。


2020年

 築150年超えの我が家には精霊がいるように感じることがある。座敷にはご先祖の遺影が飾られており、結婚して暫くはその人たちに見られている様な気がして、なんとも居心地が悪かったのを覚えている。結婚して30年が過ぎたこの頃、そのような気持ちになることはなくなった。そればかりか遺影に話しかけることが多くなっている。
 今年の春から次男が農家を継ぎ、主人とともにやってくれている。10代目の重みなどは感じていない様子だがこれから地域の事や柑橘栽培の技術など学んで欲しいと思う。娘も昨シーズンから農家の手伝いしている。若い視点で私たちが苦手な分野を担ってくれている。一気ににぎやかになり、主人も母も嬉しそうだ。その一方で心の中では将来に対する不安は私同様感じているだろう。現代は世界情勢も気象状況も想像を超えることが起こる。5年後10年後が思い描けない。
だがこれまでご先祖がさまざまな事を乗り越え今がある。それを思えばこれからも家族みんなで力を合わせ焦らず一歩ずつ歩みを進めていけばなんとかなると思うし、なんとかしなくてはいけない。夢のある農業に向けて。
 話しかけると遺影の父はいつもと変わらずお茶目に笑っている。
“きみちゃん。肩の力を抜いて楽しみながらやったらいいよ!”と言われた気がした。



2019年

If you can dream it , you can do It.(夢見れば叶う)これは有名なウォルトディズニーの言葉です。
やっぱり夢見んとね。現実は厳しくても夢は見んとつまらんもんね。

 私には妄想癖があります。特に農作業をしているときは妄想が無限に広がる気がします。主人は農作業中「つまらんやろ。ラジオでもかけようか?」と言ってくれますが、私はいつも「いらん。」と言います。虫や鳥の声・風の音の中にいると嬉しくなります。そんな中で様々な妄想が始まるのです。
 自分の将来のこと、仕事のこと、子供のこと、地域のことなど好き勝手に思いを巡らせます。ほとんどはすぐには叶いませんが、100個に1個くらいは実現します。
ある講演会で「目指す方向に“妄想”することはすばらしいことですよ」と言われました。そうか妄想OKだ。と単純な私は思います。思いついたことを主人に提案しますが、なかなかOKはもらえません。たまに「やってみれば。」と聞こえるとすぐさま「ハイ!やってみます。」そんな感じの珍道中なのです。
 目指す方向しっかり見極め、夢を現実に引き寄せたいと思います。またしてもウォルトディズニーの言葉です。
悪いときもいいときも私は人生に対する情熱を失ったことは一度もない。

 今年も様々なことがありました。これからも困難なこと、下を向きたくなることもたくさんあると思います。だけどこの困難を乗り越える方法はあるはずと必死に考えます。ピンチはチャンスととらえ、あがきながらも前に進んでいきたいと思います。そうすれば、きっと道は開けると思うのです。


2018年

 お百姓にはなれないと思ったことがある。嫁に来て間もない頃、台風で大きな被害が出た時のこと。父や母・夫も悲しみはするけれど腹立たしさや苛立ちを見せることはなく淡々と片付けや農作業に励んでいた。私は、一所懸命育てた木が無残な状態になる姿が悲しく誰にというわけではないが怒りが込み上げ腹が立って仕方なかった。なぜこの人たちはこのような心持でいられるのかと不思議な感覚になったのを覚えている。その後も様々な自然災害を受けてきた。お百姓は自然相手、自分の思うようにはならない。作物の声を聞き自然の恵みを受け必要な世話をする。やっぱり私には無理だ!と思っていた。
 そんな私は介護の仕事をして20年が経った。さまざまなお年寄りと出会ってきた。20年経って思うことがある。お年寄りは自分の思い通りにはならない。自分の都合に合わせようとするとそれを見透かしたように逆のことをして介護がうまくいかない。お年寄りの思いに気づき寄り添い必要なことをさせていただくことが介護なのかなと。
 そんなことを思っていたら三好春樹さんがこんなことを書いていた。
 介護と農業、これがいまの最先端の仕事だと思います。農業は自然を相手にする仕事です。自然は思うようにはなりません。自然を支配、管理しようとしても無理です。自然から学んで自然に適応することで作物を授かるのです。ですから、農業をやってきた人は、長く仕事をするほど謙虚になっていきます。自然の前では人間は小さな存在に過ぎないことを実感しているからです。
 介護もまた「老い」という自然を相手にする仕事です。「老い」も思うようにはなりません。老人を支配、管理しようとしても無理です。逆に老人から学んで老人に適応するのがいい介護です。(ブリコラージュ春号より抜粋)
 お百姓の心に流れる自然に対する畏敬の念のようなことかと腑に落ちた。ということは私もお百姓と近いところで仕事をしてきたのではないか。お百姓デビューあるかも!!!農業と介護のコラボはいかが!